白秋の愛した柳川の心

柳川の歴史を語る上で「立花家」そして「田中吉政」は欠かせない存在です。その武功と文化、そして地域住民との深い関わりは、現在の柳川の姿を形作る上で重要な役割を果たしています。
立花宗茂が柳川城主となったのは、今からおよそ400年前のことです。
豊臣秀吉の命を受け、戦国武将立花宗茂が柳川城に入ったのは1587年のことでした。
宗茂は九州の大名 大友家の一家臣でしたが、秀吉に武功を認められ大名に取り立てられました。宗茂が優れていたのは戦だけではありません。優れた為政者としての顔も持ちあわせていたため、柳川の人々からの信頼も厚かったようです。
宗茂は関ヶ原の戦いで西軍側についたため、領地を追われることとなります。その後宗茂は浪牢生活を経験しますが、豊臣時代の武功やその人柄を徳川幕府に認められ、柳川藩主として復活を果たします。関ヶ原の戦い以降、領地を追われた後に旧領を回復することのできた大名は、立花宗茂ただひとりです。
→立花家の詳しい歴史こちら
立花家に生まれた16代文子は、和雄と結婚し、立花家の大名屋敷を利用して料亭業を営むことを決意します。
料亭旅館「御花」の誕生です。
「お殿様、お姫様が料亭を経営するなんて!」と驚いた柳川の人々。
「当時、「殿様が料亭に通うことは当たり前じゃが、料亭を経営するとは聞いたこともなか。」「失敗でんすりゃ世の中の笑いものばい。」と、そんな会話で溢れていたそうです。文子は、持ち前の明るさで「なんとかなるわよ。」と和雄を励まし、軌道に乗るまでには長い年月を要しましたが、現在の御花は柳川の観光の拠点となっています。
大名文化を今に伝える文化施設として多くの人々に親しまれています。
→今現在も立花家の末裔が営む料亭旅館御花はこちら
関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、その際石田三成を捕らえた功績を認められ、筑後国主となり、1601年に柳川に入城しました。
田中吉政は、単なる武将ではなく、優れた都市計画家であり、治水工としても知られていました。「土木の神」と呼ばれ多岐にわたる才能を発揮し、柳川を大きく変えた人物です。
まず吉政は、柳川城を改修し、城下町を整備しました。現在の柳川の礎となる都市構造はこの時確立されたと言えるでしょう。
そして有明海沿岸の低湿地帯であった柳川は、水害に悩まされていました。吉政は、大規模な治水事業を行い、この問題解決に尽力しました。
柳川を特徴づける堀割網の多くは、吉政の時代に整備されたものです。
この堀割は、交通の便を向上させるとともに、城の防御にも役立ちました。
また、農業や商業の振興にも力を入れ、柳川の経済発展に貢献しました。
吉政の功績は、現在の柳川にも数多く残されています。柳川城、堀割、城下町の構造など、私たちの目に触れる多くのものが、吉政の手によって形作られたものです。
彼の功績は、現在の柳川の礎となり、人々の生活に深く根付いています。柳川を訪れる際には、ぜひ田中吉政の足跡を辿り、その偉業に触れてみてください。
→眞勝寺はこちら
ゆったり贅沢な時間を過ごす
水郷柳川の川下り