特集

柳川のまちと人々をもっと深く知ってほしい
柳川を心から愛する協会スタッフが、柳川の「今」を発信します。

白秋の愛した柳川の心

柳川は、水郷のまちとして知られ、その美しい自然と豊かな歴史文化が多くの人の心を惹きつけます。 この魅力的な町を形作ってきたのは、何よりも人々の熱い想いでした。代々受け継がれてきた伝統を大切にし、それを未来へと繋いでいこうとする人々の熱意が、今日の柳川を創り上げています。 掘割が織りなす、美しい風景と暮らし 柳川を特徴づけるのは、町中に張り巡らされた掘割です。掘割には、人々の生活と深く結びついた歴史が刻まれており、そこをゆっくりと舟で巡る川下りは、柳川観光の定番となっています。掘割の清掃や手入れは、地域住民の手によって行われ、美しい景観を保つための努力が続けられています。 柳川で育まれた詩心・北原白秋 北原白秋は、柳川で生まれ育ち、その豊かな自然や人々との触れ合いの中で詩心を育みました。 彼の詩には、柳川の掘割や水路、風景が数多く詠まれており、故郷への深い愛情が感じられます。 代表作のひとつ「思ひ出」は故郷柳川と破産した実家に捧げる懐旧の上で、白秋の名を世に知らしめました。 「水の構図」という詩集は、柳川の水郷風景が象徴的に描かれています。白秋は、柳川の水を「詩歌の母体」と表現し、その重要性を強調しています。 白秋の詩の世界に触れることで、柳川への理解を深め、より一層魅力を感じることができるでしょう。 生家と記念館はこちら 祭りで感じる、人々の温かいおもてなし 柳川には、一年を通して様々な伝統行事が行われています。特に、詩人・北原白秋をしのび、水郷の町・柳川を舞台に繰り広げられる幻想的な白秋祭水上パレードである白秋祭は、その代表的な例です。この祭りは、地元の人々の総力を結集して行われ、地域全体の活気あふれる様子が印象的です。白秋祭以外にも、柳川には様々な魅力的なお祭りが存在します。 春の風物詩: さげもんめぐり:日本の三大吊るし雛のひとつであるお祭り。町中に飾られ、春の訪れを告げます。 中山大藤まつり: 古くから伝わる大藤の花が咲き誇り、多くの人々を魅了します。 沖端水天宮祭: 舟舞台に乗って、神様を巡る伝統的な祭りです。 夏の風物詩: 中島祇園祭:火を噴く大蛇山は、子供から大人まで楽しめます。 秋の風物詩: 三柱神社秋季大祭(おにぎえ): 賑やかなお囃子と山車が町中を練り歩き、活気あふれる様子が特徴です。 白秋祭: 水上パレードでは、沿道から老若男女柳川市民からのおもてなしを味わえます。 冬の風物詩: 白秋生誕祭:白秋の生家から詩碑苑まで、白秋の遺影や酒樽を乗せた大八車がパレードします。   これらの祭りは、単なるイベントではなく、地元の人々が代々受け継いできた大切な文化です。 祭りを通して、人々は互いに協力し合い、地域全体の絆を深めています。 未来へ繋ぐ、伝統の灯 柳川の人々の熱い想いは、単に過去のものを守るだけでなく、未来へと繋げる力となっています。伝統的な祭りを後世に伝えていくこと、掘割の美しさを保ち続けること、そして、新しい世代に柳川の魅力を伝えること。 江戸時代から続くどこにも類を見ないサステナブルタウン・柳川に一度足を踏み入れてみてください。 (→サステナブルタウン・柳川の特集) 柳川での体験をより有意義なものにするために、まちのコンシェルジュがご案内します。

有明海のめぐみ

先人たちによって長い年月をかけてかつては有明海の中にあった柳川。有明海の一日の潮の満ち引きの差(干満差)は日本一。 一番大きい日には6mの干満差を生み、その息吹によって育まれた農産物や水産物は、柳川の人々の暮らしに彩りを添え、深く根付いた食文化を育みました。 うなぎのせいろ蒸し 柳川の街に流れる風が、香ばしいうなぎの甘い香りをそっと運んでくれます。 うなぎのせいろ蒸しは、江戸時代から続く柳川の伝統的な郷土料理の一つです。蒸し器の一種である「せいろ」を使って調理されるのが特徴で、炭火で焼いたうなぎとタレの染みわたるご飯を一緒に蒸すことで、風味豊かでしっとりとした食感が熱々のままお楽しみいただけます。 柳川海苔 有明海の6メートルにもおよぶ干満差のおかげで豊富な栄養を含み、良質な海苔が生まれます。なめらかな口どけと噛むほどに旨味がじんわりと広がります。艶やかで深みのある黒色が特徴的で料理に使うとその見栄えも一段と引き立ちます。この地で育った海苔を味わうことは、有明海と長く共存してきた柳川の自然と歴史に触れることでもあるのです。 有明海でとれる魚 有明海は「珍魚の宝庫」として知られています。日本でも特に干満差が大きく、豊富な栄養分が供給されるため、他の場所では見られない多様な生物が生息しています。これらの珍魚は、地元の漁師や料愛され、食文化として根付いてきました。 ムツゴロウは干潟に生息するユニークな魚で、青緑がかった体と飛び跳ねるように動く姿が特徴です。地元では「干潟のダンサー」とも呼ばれ、塩焼きや唐揚げ、煮付けで味わわれます。口に含むとふっくらとした身と独特の風味が広がり、珍味として人気です。 米・野菜・果物 水郷の町として知られる柳川ですが、九州有数の穀倉地帯としてもその名を知られています。古くから米、麦、大豆などの穀物が盛んに栽培され、近年ではナス、レタス、イチゴ、アスパラガスといった野菜や、ぶどう、イチジクなどの果樹栽培も盛んです。豊かなミネラルを含んだ肥沃な土壌で育まれた農作物は、地元の食卓を彩り、柳川ならではの豊かな食文化を支えています。

守り継がれる文化歴史

柳川の歴史を語る上で「立花家」そして「田中吉政」は欠かせない存在です。その武功と文化、そして地域住民との深い関わりは、現在の柳川の姿を形作る上で重要な役割を果たしています。 立花家と柳川の400年の歴史 立花宗茂が柳川城主となったのは、今からおよそ400年前のことです。 豊臣秀吉の命を受け、戦国武将立花宗茂が柳川城に入ったのは1587年のことでした。 宗茂は九州の大名 大友家の一家臣でしたが、秀吉に武功を認められ大名に取り立てられました。宗茂が優れていたのは戦だけではありません。優れた為政者としての顔も持ちあわせていたため、柳川の人々からの信頼も厚かったようです。 宗茂は関ヶ原の戦いで西軍側についたため、領地を追われることとなります。その後宗茂は浪牢生活を経験しますが、豊臣時代の武功やその人柄を徳川幕府に認められ、柳川藩主として復活を果たします。関ヶ原の戦い以降、領地を追われた後に旧領を回復することのできた大名は、立花宗茂ただひとりです。→立花家の詳しい歴史こちら 立花家に生まれた16代文子は、和雄と結婚し、立花家の大名屋敷を利用して料亭業を営むことを決意します。 料亭旅館「御花」の誕生です。 「お殿様、お姫様が料亭を経営するなんて!」と驚いた柳川の人々。 「当時、「殿様が料亭に通うことは当たり前じゃが、料亭を経営するとは聞いたこともなか。」「失敗でんすりゃ世の中の笑いものばい。」と、そんな会話で溢れていたそうです。文子は、持ち前の明るさで「なんとかなるわよ。」と和雄を励まし、軌道に乗るまでには長い年月を要しましたが、現在の御花は柳川の観光の拠点となっています。 大名文化を今に伝える文化施設として多くの人々に親しまれています。→今現在も立花家の末裔が営む料亭旅館御花はこちら 柳川を形づくった男、田中吉政 関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、その際石田三成を捕らえた功績を認められ、筑後国主となり、1601年に柳川に入城しました。 田中吉政は、単なる武将ではなく、優れた都市計画家であり、治水工としても知られていました。「土木の神」と呼ばれ多岐にわたる才能を発揮し、柳川を大きく変えた人物です。 まず吉政は、柳川城を改修し、城下町を整備しました。現在の柳川の礎となる都市構造はこの時確立されたと言えるでしょう。 そして有明海沿岸の低湿地帯であった柳川は、水害に悩まされていました。吉政は、大規模な治水事業を行い、この問題解決に尽力しました。柳川を特徴づける堀割網の多くは、吉政の時代に整備されたものです。この堀割は、交通の便を向上させるとともに、城の防御にも役立ちました。 また、農業や商業の振興にも力を入れ、柳川の経済発展に貢献しました。 吉政の功績は、現在の柳川にも数多く残されています。柳川城、堀割、城下町の構造など、私たちの目に触れる多くのものが、吉政の手によって形作られたものです。 彼の功績は、現在の柳川の礎となり、人々の生活に深く根付いています。柳川を訪れる際には、ぜひ田中吉政の足跡を辿り、その偉業に触れてみてください。 →眞勝寺はこちら

  • 愛嬌挨拶 歴史 田中吉政 立花宗茂

掘割が作り出すまち並み

〜柳河は 城を三めぐり 七めぐり 水めぐらしぬ 咲く花蓮〜 柳川にはどうしてこんなにたくさんの水路が張り巡らされているのでしょう。 総距離なんと930km、東京ー博多間と同等の長さの「掘割」が存在します。 その理由を知るには柳川の成り立ちまで遡る必要があります。あなたが立っている、その場所はかつて海でした。 そこに川が運んでくる土砂がたまることで陸地が伸びていき、日本でいちばん広い「干潟」ができました。干潟とは海が干潮になったときに陸地となって現れるようなとこです。 そんなジメジメした湿地帯におよそ2000年前、家を建てる人があらわれました。しかし、大雨で川が増水したりすると、たちまち家は流されてしまいました。どうしたら、この場所に住めるのだろう。考えたのが、この地に溝を掘り、その土を盛り上げること。そうして土地を安定させて家を建てたり、田んぼを作ったりしたのです。 それだけではありません。溝を掘ったところには雨水が溜まります。その水を使って生活がしやすくなったのです。これが堀割の歴史のはじまりです。 時代が進むにつれて、それらの堀割が増えていき、堀割がつながりあって水路となり、水郷が築かれていきます。そして、戦国時代になると柳川に城が築かれ、城下町の堀割、城堀として高度に整備されることになります。 彼らが目指したのは、大きな川から一部の水を引き込んで、町中に網の目のように行き渡る水路をつくること。それはトライ&エラーの繰り返しでした。堀割の流れをコントロールすることに失敗し、増水して町が水浸しになるたびに、その原因となった堀割を微調整する。 そんな試行錯誤をひたすら繰り返していくことで、まるで精密機械のような水路のネットワークが張り巡らされ、生活用水はもちろん、田畑をうるおし、排水するというシステムを完成させたのです。 なぜ、そこまでする必要があったのでしょう。実は、柳川は日本でいちばん干満の差が激しい有明海に面しています。そのため、満潮になると海面が陸地より高くなります。想像できるでしょうか。あなたが立っている場所は海面より低い場所になるのです。ひとたび堤防が決壊すると海から水が押し寄せて水浸しになってしまうことでしょう。それを防ぐために海沿いには頑丈な堤防が作られました。 しかし、もうひとつの問題があります。それは、上流から流れてくる川の水です。通常であれば、川の水は海に流れ出していきますが、この場所が海面より低いとなれば、海に排水することができません。そのため、川の水がどんどん町の中にたまってしまいます。 そこで、堀割の出番です。柳川に張り巡らされた総延長930kmもの堀割に水を満たすことで水をもたせ、遊水させる。そうして干潮になるまで時間をもたせれば、再び海面は陸地より低くなり、海に排水することができます。そのために堀割が必要だったのです。それから戦前まで変わらず堀割のシステムを利用して、堀割の水を飲んで暮らしていた柳川の人たちでしたが、昭和になって未曾有の大水害が起こり、再び町が水浸しになってしまいます。これを機に上流にダムを整備したりしたことで堀割の水の流れが悪くなりました。 それと同時に水道が完備したことで、蛇口をひねれば水が出るようになります。堀割の川に水を汲みにいく必要がなくなった柳川の人たちは堀割を必要としなくなり、いつしかゴミ捨て場のようになって川の汚染が進んでいきました。やがて異臭を放つようになった柳川の堀割を暗渠にして塞いでしまおうという計画がはじまるのですが、そのとき、「郷土の川に清流を取り戻そう」と声を上げた人がいました。 その人物は100回以上の懇談会を繰り返して住民の賛同を得ていきます。鍵となったのは「堀割がきれいだったころの記憶」「子供のころに川で遊んだりした原体験」でした。その記憶を思い出した柳川の人たちは、あのころの風景をよみがえらせるべく、しばらく背中を向けていた堀割と再び向き合い、数年かけて掃除をしていきました。そうしてきれいになったのが現在の水郷・柳川です。 あなたが目にしている柳川の風景は、このような物語を経て今に残っているのです。柳川にはどうしてこんなにたくさんの川が流れているのでしょう。その答えは、これまでの物語の中から見出すことができるのではないでしょうか。

  • 930km 掘割 有明海 柳川の歴史